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- 耳ず

- 2020年11月12日
- 読了時間: 10分
更新日:2020年11月13日
12日になってしまいましたが、昨日あげる予定だったので昨日の日付であげますね。
映画「星の子」の感想です。
原作は読んだことなかったのですが、一緒に観に行った姉と帰りに話が白熱し、それが自分にとってとても身のある話し合いだったので記事におこしたいと思いました。
この映画のあらすじはこうです。
大好きなお父さんとお母さんから愛情たっぷりに育てられたちひろだが、その両親は、病弱だった幼少期のちひろを治した“あやしい宗教”を深く信じていた。中学3年になったちひろは、一目惚れした新任のイケメン先生に、夜の公園で奇妙な儀式をする両親を見られてしまう。そして、彼女の心を大きく揺さぶる事件が起きるー。
(公式HPより引用)
あまり言うとネタバレなので、私がまず思ったことから言いますと、「宗教の自由」の難しさです。
宗教の自由というのがありますよね。人が何を信仰しようと自由だという理念です。大体の人は勧誘とか妙な押し付けさえなければ別に良いんじゃないかと、寛容であると思います。変な宗教にハマる主人公の両親も、別に他人を無理やり勧誘したり宣伝したりはしていません。だけども主人公は親の持つ信仰によって悲しい目に遭います。
一つは、親族による宗教の否定です。
人には、自分が良いと思うもの、楽しいと思うものを他人と共有しようとする習性があります。親しい人にほど共有したがり、楽しさを分かち合えたらと期待します。それは決して悪いことではありません。勿論押し付けすぎては嫌われますが、人としてそうした行動は普通のことです。
ある日、両親は奥さんのお兄さんーー主人公にとってのおじさんーーに水を勧めます。この水はその宗教において重要なアイテムで、お祈りによって金星の特別な力が込められた聖水なんです。この水を飲んだり、患部に浸したりすると忽ち具合が良くなる素敵なアイテムで、勿論その良さを共有しようと二人はおじさんに丁寧な説明をしました。
しかし、おじさんは妹がその宗教にハマったときから訝しがっており、今回の訪問前に金星の水を差し替えてただの水道水にしていたのです。おじさんはそんなただの水と金星の水も見分けがつかないくせに、何を有り難がっているのかと馬鹿にしました。そして目を覚ませよと正気に戻るよう話かけました。
両親はその行為に憤り、二度と家に来るな!とおじさんを追い出しました。
おじさんは、二人が嫌いでこんなことをしたのではありません。むしろ好きだからこそ、こんな怪しい宗教にハマる二人を、子どもたちを救おうと行動に出たのです。水を有難がっているが、そんなのはまやかしだと。ただの水と違いない、効能なんかないんだと気付いて普通になってほしかったんだと思います。
何しろ、二人(両親)は金星の水を染み込ませたタオルを常に頭の上に置いて生活していましたから。そうすれば悪い気が出ていくと、毎日頭の上に畳んだタオルを置いて、決まった時間に清める儀式を行なっていたのです。主人公はまだ頭の上にタオルを乗せて生活をしていませんでしたが、こうした両親の下にいれば敬虔な信徒になるよう教育されるでしょうし、周りの子との「普通」にズレが生じてきます。
二つめは、好きな先生に指摘された自分の宗教の異常性です。
遅くまで友達と居残りし、成り行きで先生がそれぞれの家まで送ってくれることになりました。その時、主人公は好きな先生の助手席に乗ってとてもうれしそうでした。主人公の家まで着いた時、先生は降りようとする主人公を引き止めます。
「変な奴らがいる」
それは、儀式を行う主人公の両親のことでした。交互に椅子にすわりかぶったタオルに水をかけ流していく光景は異様なものでした。先生はその二人を不審者だと言い、危ないからいなくなるまで待っていなさいと言います。さらに、先生はその二人を異常だとして「二匹いる」などと人外扱い発言をしたのです。
主人公は第三者から見て自分の宗教がどのようなものか知り酷く動揺しました。あれは自分の両親で、清めるための儀式を行なっているだけだと説明できませんでした。なぜなら、恥を感じていたからです。
恥ずかしい、自分の両親は、この宗教は普通じゃないんだ!自分たちはおかしい存在なんだ!
主人公の信仰心に傷をつけた先生の行動は、生徒を守るためにしたことでした。しかし、それは宗教の否定に違いありません。理解できない、頭がおかしいーーこんな風にレッテル付けることが、明確な悪意もなくされてしまうのです。
その後先生は、送り迎えをしたことにより主人公との色恋話が噂になり、また主人公があの不審者について訂正しに話したことによりHRでこんなことをしてしまいます。
まず、生徒に向かって風邪の注意喚起を行うとともにウィルスの話をしました。
科学的にこのような現象が確認されており、治すにはワクチン接種や療養などが必要だと根拠づけられている。ーーーこれは明確に主人公の宗教を否定しにきていました。金星の水を飲み、患部に染み込ませたタオルを乗せれば忽ち悪い気は消え失せ、怪我や病気が治るというものでしたから、科学の説法をすることはおじさんがしたあの行為と同じ意味を持っていました。先生は主人公に、お前はおかしいから正気に戻れと言いたかったのです。気付きなさいと。
しかし、主人公はかつて描いた先生の絵を消すことに必死で、話を聞いていないようでした。※
噂話で苛立っていたのもあり、他の生徒を静かにしろと怒鳴るついでに自分の似顔絵を描く主人公を怒りました。そして卓上に出ていた金星の水を「その変な水をしまえ!」と明確な敵意・悪意を持って注意したのです。ある意味、晒し上げでした。
主人公が変な宗教を持っていると公然の前に晒しだしたのです。主人公は慌てて水をしまい、身を縮めました。
思い起こされるのは、宗教による迫害です。その地域で異端とされた宗教の信者はつまみ者にされ、晒されて公然の前で裁かれます。その宗教を信仰しているだけで罪をなし、メジャーな大多数に勝手に裁かれて良い。なぜなら頭がおかしい人たちだからです。
そう思うのは、理解できないから。ありもしないものを信じて崇めているから。
一つめと二つめの共通点は、正気に戻そうと宗教弾圧を行ったことです。彼らに悪気はありませんでした。映画を見ていても、主人公の宗教は変に見えますし、儀式の様も異様です。そんなたかが水で万事治るわけがないのに信じて、普通に考えて変だからです。なんの効果もないのに、なぜ無駄に高い水を飲んだりタオルに浸してかぶったりするのか?おじさんなんかは、効能がないことを証明してみせましたが、それでも彼らは水を信じ続けました。また、そんな宗教を信仰していても周りから浮くだけです。話が合わないし、価値観の相違も出るでしょうから、気楽に生きていくにはその宗教を捨てた方が良い筈です。それでも主人公たちは信仰心を捨てませんでした。
どうしてそこまで信仰するのか?目の前で水に力がないことを見せられたのに、どうしてまだ金星の水を信じるのか?
それは、人がものを好きになるのに確かさは重要ではないことを表しています。人が何かを好きになる時、それが真実かどうかは大事ではないのです。
主人公の先生は、科学的根拠を示して主人公の宗教を否定しましたが、先生のそれは主人公がその宗教を信じる心理的構造と違いありません。
なぜ先生は科学の話をしたのでしょうか?それは、それが正しい、この世の真実だと信じているからです。主人公の宗教と相反するところにいると考えているからです。だけども、先生はそのウィルスの話をなぜ信じているのでしょうか。自分の手でワクチンの有効性を実験し、人の構造とウィルスの働きの関係性やそれぞれの特徴を確認した訳でもないのになぜそれがそうだと分かるのですか。科学にも分かっていないで利用している部分が沢山あります。先生は真実だとこの目で一つ一つ確認したわけでもないのに、科学の教科書にのっているあらゆる難しい事象を本当のことだと信じています。もう一度いいますが、先生はそれらを真実かどうかなんて確認していません。
先生がそれを信じているのは、自分の信用する機関や人々がそうだと信じているからです。大多数がそうだと言って、そのように教えられたからです。先生があげた科学の、先生が信じる理由なんかこんなものです。それと、主人公がその宗教を信じることになんの違いがあるというのでしょうか?
キリスト教がメジャーの時代にピューリタンが迫害された構造と、先生が主人公に対して行ったことはそう違いがありません。メジャーかそうじゃないかです。
主人公だって、主人公の属する世間、自分の宗教で繋がった友達や家庭がそうだと信じているから信じているんです。学校をでれば、主人公のプライベートなコミュニティはそこで形成されています。家族ぐるみでそうです。集会に行けば沢山の人が同じ宗教を信仰していることが分かります。
先生が科学を信じるのは、そうした世間で生きてきて、それが常識のコミュニティだったからです。
そこにいるのが楽だからです。楽しいからです。
主人公も同じです。わざわざ自分の宗教を否定して、今までつながってきた縁を断ち切って(それこそ親の縁まで)別の世間に生きることが楽だと思いますか?楽しいことなんでしょうか?その道は初めの苦しみが約束されています。
そこでコミュニティが形成されれば、そこで関係を築いているわけですからそこで生きるのが楽しいに決まっています。価値観も合う、話も合う、前提にしていることが分かる。楽しいコミュニケーションにはこの合致が必須です。
私たちが「信じること」そのものへの理由はこんなものです。宗教だろうと科学だろうとなんだろうと、その心理的構造はこれです。その方が楽しいからです。
そこに真実かどうかは関係ありません。
例えば、小説はかつてノンフィクションでなければいけませんでした。フィクションならばその話に感動する意味がないからです。明治時代はこの傾向が強く出ており、フィクションでもノンフィクションかのように振る舞う必要がありました。「不如帰」という作品はフィクション作品であるにも関わらず、大衆にこの作品が持て囃されるにつれて、モデルとなった人物は、舞台は、この話の元話はなどと事実としての根拠を集めるようになり、ノンフィクション作品としての扱いを受けるようになりました。1
しかし、現代ではフィクションかノンフィクションかはジャンルの違いのみでさほど重要ではありません。大切なのはその話に込められた意図や養われる思考法です。二次創作なども、勿論公式にはない設定ですがとても多くの人に楽しまれています。
それは人がものを見る時、好きになる時に真実であるかどうかは大切ではないからです。
しかし、難しいのがあれもアリ、これもアリでは世が成り立たないということです。全ての言い分を受け入れていてはルールが成り立ちません。この世に善も悪もないとしても、善も悪も決めなければ、一定数、一定ラインの自由は保証できません。みんな仲良くでは、競争は生まれず、議論も捗らず社会はまわらないからです。2
多様性に寛容になった時点で、人々は言葉のブーメランを恐れて口を閉ざしてしまう。
優しい世界は理想です。でも理想では生きていけません。
いつぞやの記事でも書きましたが、傷つきなしに人生はありません。悲しいけれど、悲しみが無ければこの世に愛も深みもないのです。
とても良い映画だったので、もし機会がありましたら観てみてくださいね!
※訂正です。 主人公があの時していたのは、先生の似顔絵を描くことです。絵を捨てるためノートから切り離していたところを同級生に見られ、捨てるのは勿体無いと言うクラスメイトにあげることにしたのです。そのために絵を完成させるべく続きを描いていました。
すみません、私の記憶違いによる誤りです。
参考文献
1
明治後期における課外読み物観の形成:『太陽』における「小説」観に着目して
『不如帰』の断片化と再編成:「不如帰もの」研究序説
家庭小説と女性読者ー『女学世界』投稿小説を通してー
2
19世紀末社会主義ユートピアと現代
シャルル・フーリエの理想社会における権力構造
エドワード・スノーデン
自由を謳うアメリカでさえ、それが監視の上、プライバシーの侵害の上で成り立ちます。自由の裏にはある程度の制限があります。自由の意味について考えると楽しそうですよね。

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