シンエヴァ感想①
- 耳ず

- 2021年3月19日
- 読了時間: 13分
タイトルの通りです。
この記事はシンエヴァのネタバレになりますので、まだ見てない/ネタバレが嫌だという人は読まないでください。
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まず、この映画が私にとってどうだったか簡単に言いますと、「最高」。
最高でした………!!
私は映画を何度も見に行く人間ではありません。映画館で一度見たらそれで終わり。DVDやBlu-rayで繰り返し見ることはあっても、映画館に何度も足を運ぶことはありません。それは、映画館という空間が苦手だからです。
誤解のないように言いますが、映画館は素敵な場所です。映画を見る周りの空気、四方からくる音響と大画面のスクリーン、それは家では味わうことのできない生きた空間です。それは大好きなんです。だから一度は映画館で観たいと足を運ぶわけです。しかし何度もはできません。それは拘束されるのが嫌だからです。周りにも配慮のいる状態で作品を見るというのに疲れてしまう。楽しむなら家で自由に、ゆったりと…。
そんな私が!シンエヴァを見るために2度映画館に足を運びました!なんならもう3度目の予定もたっていますし、あと最低10回は行こうかなと思っています。
これがどういうことか分かりますか。素晴らしかったということです……!!
シンエヴァを見るなら今は映画館に行くしかない。だからBlu-rayが出るまでは通い続けよう。そういうことです。
さらに言えば私は新劇場版にさして興味はありませんでした。私はテレビ版と旧劇場版が大好きで、それらは繰り返し繰り返し見ているのですが新劇場版はDVDすら持っていませんでした。興味がなかったんです。エヴァが好きなので、もちろん序、破、Qは見ていましたが、繰り返し見たくなる程の魅力を感じていませんでした。テレビ版、旧劇場版を超えなかったのです。
それが、シンをみたことで一遍!全部ちゃんと見直したい…!全部揃えたい…!話の流れ、描写、セリフ…そのすべてを見たい…!
シンを見た後、そんな風に思うようになっていました。
これがどういうことか。もうお判りでしょうが、最高だったということです……!!
私の中の新劇場版の評価を覆すレベル。それほど力のある作品でした。
シンエヴァは最高。
これが結論ですが、具体的に話の中でどう思ったかをこれから書いていきます。
1、第三村での立ち直り
2、ゲンドウさん
3、カヲルくん
4、マリについて
今回は1,2について書いていきます。
1.
初見、私は第三村でのシンジ君の立ち直りにかなりの不満を抱いていました。かなりです。見ていて具合が悪くなったレベルでした。なぜなら、シンジ君がひどくご都合的に感じたからです。立ち直る過程に納得できなかったのです。私は、それじゃあヴンダーに乗らないだろと思いました。彼がひどく物語上の都合で、記号的に立ち直らされたように感じたのです。
シンジ君が無言症(脳機能などに問題がない緘黙のこと)を発症したのは、カヲル君の死が主なきっかけですよね。アスカが首にしているDSSチョーカーをみて嘔吐するシーンからもその要因が伺えます。なら、そもそもなぜカヲル君の死がそんなにショックだったのでしょうか。それは、カヲル君はヴィレで何の説明もなく「何もしないこと」を強要されたシンジ君に、初めて手を差し伸べてくれた人物だからです。
ヴィレは、シンジ君にニアサードインパクトの重責を負わせたくないという優しさで関連事項を黙っていたようですが「あの日から14年経っている」という情報だけでそれが察せるわけがありません。まずシンジ君が憤るのも当然です。人間の意志を尊重するうえで基本となるのは「選択」です。例えば、医師が治療方針を決めるうえで患者と話し合ってやり方を決めるというのは当たり前のことですよね。余命いくばくの重病であっても、医師は患者にそれを伝えなければいけません。伝えないで医師一人で治療法を決める。それは優しさであっても許されることではありません。患者には知る/知らないを決める権利があるからです。それを勝手に決めるというのは相手の選択する意思を侵害することになります。
医師と患者では、シンジ君とヴィレ(ミサトさんやアスカ)の関係に相違があると思われるかもしれませんが、医師と患者にそうした義務が発生するのは基本的に医師が強い立場にあるからです。シンジ君とミサトさんたちはその「14年間の情報」を得ている/得ていないなどで立場に優劣があります。支配―被支配ということです。まず対等ではありません。ある意味ヴィレはその立場を利用して優しさを振りかざしています。
一方カヲル君はシンジ君に選択の権利を与えています。
ピアノを通してシンジ君の成功体験を重ねて(楽しいと感じる体験から活発化させる)、連弾により彼の心に寄り添っていきます。重要なのは、カヲル君がピアノをシンジ君に強要していない点です。あくまでシンジ君の意志でこの場所に集まり、そのうえで自分も楽しいことを伝えている。真相を伝えるときもそうでしたが、カヲル君はシンジ君の意志を尊重し、彼に選択させます。さらに好意もちゃんと伝えています。シンジ君にとってこんなに心の安らぐ場所はないでしょう。
そのカヲル君が、自分の引き起こしたフォースインパクトの責任を取って、本来自分が死ぬ筈だったDSSチョーカーで爆死する。それを目の前で見ていてどうすることもできなかった自分。結果的にシンジ君は、カヲル君への加害と喪失を同時に受けます。そして無言症に陥いります(失語症は脳機能に問題があり言葉が出てこない症状を指します)。
ならば彼が回復し、また言葉を発するうえで必要となるのは何でしょうか。
私は、シンジ君が自分の引き起こしたニアサードインパクト/フォースインパクトの重大さを実感したのはカヲル君の死が引き金だと思っています。彼の死によって、「フォースインパクトを起こさなければ… →そもそもニアサードインパクトを起こさなければ… →何かを助けようとして壊すことしかできていない自分。もう何もしたくない。」と思考が陥ってしまったのだと思います。なのでシンジ君に必要なのは、その思考を吐露させること。そのうえで再認識を行っていくことだと思います。
大事なのはこの順番で、まわりが一方的変えさせようとしても暖簾に腕押し、もしくはそれ以上の拒絶反応が返ってくるだけです。大事なのはまず、本人にしゃべらせること。何故緘黙に陥っているのかを吐き出させることです。させる、させると書きましたが話すよう強要するのではいけません。あなたが知りたい、それはあなたが好きだからだというのを根気強く伝え、怒りを試されるような反応もあるでしょうがそれすらも相手を知りたいというアプローチに利用しなければいけません。なぜ相手への負の感情を引き出させようとするのかというと、自己否定が強いからです。そうはいっても貴方もこう思うようになる、とわざと自分を傷つけるような反応を引き出させます。そして相手を見限ります。ここに耐えて信頼関係を結んでこそ、無言症は解かれていきます。裏切られる体験/見捨てられる体験が強いほどここが困難になります。いずれにしても、第一に気持ちを吐露させることが重要です。
だから私は第三村でのシンジ君の立ち直り過程に不満を持ちました。たったあれだけで、無言症の人間が立ち直るのかと。二度目を見に行くときはそこに注視して、シンジ君の心理変化を考えてみました。
シンジ君が第三村でまず出会ったのはトウジでした。死んだかもしれない、と思っていた人物が生きていただけでシンジ君は嬉しかったと思いますが、今までの過程上、彼はそれを喜ぶことができません。彼らをこんな生活に陥れたのは自分だからです。だからシンジ君には喜んではいけない、悲しんではいけない、何かをしてはいけないという抑圧がかかっていたと思います。それはケンスケのところに引き取られて、夜中にひっそり泣くシンジ君からも伺えます。基本的に人のいる前では感情を出しません。それは許されないと思っているからです。自分にその価値がないと思っているからです。その抑圧が自分の行動に枷をかけています。おそらく、ケンスケが吐瀉物の片づけをしている時も内面自分で片付けなくちゃとかケンスケに悪いとか色々なことを思っていたと思いますが、出てきた行動は固まる、です。動けません、まず。自分で自分を抑圧しているので、自分に行動許可が下りないのです。なのでアスカが無理矢理食べさせたように荒っぽい行動をするか、人目をなくして食べるのを待つかの二つになります。が、どちらをしても回復には至りません。時間が過ぎるだけです。大事なのはできるだけ後者のようなやり方で、声をかけることです。反応が返ってこなくても話し続けること。そして一人の時間も作ることです。
そう、シンジ君が家出した後のアヤナミの対応です。
だからシンジ君はアヤナミの前で感情を出すことができたのです。
「何も守ってない、全部壊しただけだ!!だから何も話したくない!何もしたくない!!」
「ありがとう、話してくれて」
ここでアヤナミが、話してくれたことに対し感謝する、というのがすごく良いと思います。アヤナミは委員長(もう委員長じゃありませんが笑)を通して言葉のおまじない――生きていく上での願掛け――を学んでいるわけです。彼女はシンジ君と対比的に第三村のコミュニティに馴染み、その文化だけでなく職を得て村社会の地位まで手にしています。一方シンジ君はいまだ第三村の外れにおり、その文化コミュニティに馴染んでいません。その彼に、アヤナミが第三村で得た文化―挨拶のおまじない―を与え心が開く。シンジ君をコミュニティに迎合しているかのようですよね。シンジ君もそれを受け入れました。もともとシンジ君はそういう挨拶をする文化圏にいたわけですが、Q以降ご無沙汰だったわけです。それを彼が再び受け入れたことに意味があるわけです。回復、ということですね。
シンジ君はやっと自分を許せたわけです。自分への枷を外しても良いんだと思えるようになったんです。
ただ、二度見てもまだ不満なのは、シンジ君の「なんでみんなそんなに優しいんだよ…!」が早すぎることです…!! 彼がこの言葉を発するということは、周りのみんなの行動に「優しさ」があることを認知していた、ということなんです。まず自分に価値がない、自分は何もするべきではないという自己評価に陥っていたのなら周りの行動もそれに合わせて見えます。他人のあらゆる行動から「優しさ」を感じれないということです。周りも自分が嫌いだという風に見える。だから地道に声をかけ、好意を伝えることが重要になるんです。この人は信用していいかもしれないと思ってもらう。話を聞いたうえで好意を伝える。好意を信じてもらえてやっとその人の自己評価を変えることができる。認知の歪みに亀裂を入れることができる。ということです。なので、アヤナミのこれを経て世界の見方が変わった描写をはさむべきでした。もしくは、うすうす優しさに気付いていく彼の内面を描くべきでした。
シンジ君が正しく周りの人間の優しさを認識できていたのなら、彼は優しくされる自分を認識していたということです。その価値を理解していたということになると、心的ショックというよりただ意地になっているだけのことになってしまいます…。
とてもいい言葉なのに…この言葉を持ってくるには早すぎました。映画だから尺の都合的に仕方ないのかもしれませんが、ここだけがずっと不満です。シンジ君が自分のわだかまりと決着をつける、ケリをつけるためにエヴァに乗るなら第三村での立ち直りは惜しいものでした。「なんでみんなそんなに優しいんだよ…!」は、旧劇の「もっと僕に優しくしてよ!!」と対比になる言葉なので、尚更それに気づけたシンジ君というのを丁寧に描写してほしかったです。いや、大事に描写されてるとは思うのですが、あと一つ、あと一つ足りなかった感じですね。シンジ君の場合、役割に依存する傾向があるので、ヴンダーに乗る理由がそれなら周りの立ち回りもそれで事足りたんですが。…まあ、いやだったら自分で創作すればいいんですよね。時間経過の描写はありましたので、その空白を埋めたいな~と思います笑
2.
今回、ゲンドウさんの内面が知れてとても良かった!!と思いました。今までシンジ君がお父さんのことを思っているだけで、ゲンドウさんの内面は描写されてきませんでしたよね。言葉の端々から感じるだけで、メインを張ることはありませんでした。
わたしは、シンジ君の父親回想の中で電車のホームに放っておかれたあのシーンがとても印象に残っているのですが、そこの父親視点を知れてよかったです。あのシーンは、シンジ君の見捨てられ不安の根源的体験だと思います。泣いてもわめいても父親が振り向いてそばに来ない。抱きしめても、泣き止ませてもくれない。自分にその価値がなくなったから。どうして、なんで、どうして嫌われたんだろう。嫌わないで、見捨てないで。
シンジ君にとってはそんなシーンだと思うんです。でも逆の立場から見れば、泣きわめく息子の声が自分を非難しているように聞こえる。母親を死なせた自分をどこまでも追い詰めようとしてくる。シンジは自分が嫌いに違いない。傍にいないほうが良い。なぜなら今もこうして泣きわめいて自分を責めてくるから。
ゲンドウさんにとってはそんなシーンだったわけです。自分を罰する存在から逃げる。これは虐待加害者にみられる認知の歪みです。シンジ君を育てた「先生」が親族なのか教師なのか医師なのか…なんなのか分かりませんが、その人がいなければゲンドウさんのそれは完全にネグレクトです。その思考そのものです。ああ、それが公式で提示されて、私は良かったと思いました。なんとなくわかってはいましたが、ゲンドウさんは本当にシンジ君が嫌いなわけではないということです。ゲンドウさんにとってシンジ君は常に測りかねる存在だったわけです。お互いに、分からない存在だった。
この親子には言葉か足りないと散々言われてきたことですが、今回シンジ君が先に大人になってゲンドウさんの言葉に耳を傾けたことで長年疎かだったコミュニケ―ションが成り立ちました。父親をコンプレックスに他人とのかかわりを遮ってきたシンジ君が、父親以外の人間を通して自己回復しその父親と向き合えるようになる。今思えば、シンジ君は自己認識の歪みを感じるとき、いつも父親の影を感じています。おそらく、父親も自分と同じだと気付けるのはこの過程を経てからなんですね。シンジ君のほうが先に、ゲンドウという人間を少し見るわけです。そして今回は、ゲンドウさんもそれを許した。やっとです。やっとじゃないですか……。親子の対話が…。
ゲンドウさんがシンジ君と向かい合えたのは、もうすぐユイに会えるからというのが大きいと思います。私が衝撃的だったのは、ゲンドウさんがユイさんの死を認めていなかった点です。ずっと、ユイさんの死を引きずって、死者と会うために補完計画を進めてきたのだと思っていました。しかし、シンを経て、ゲンドウさんはユイさんの死すら認めていなかったことがわかりました。だから、シンジ君は息子ではありますが、ユイさんの忘れ形見ではないということです。ユイは死んでない。どこかにいて、会えるはずなのだ。その方法を探す。そういうことだったのです。これを知ったとき、ゲンドウさんのユイさんへの思いがあまりにも重症で驚きました。
しかし、息子―シンジ君がゲンドウさんのずっと秘めてきた内面に入り、心の声を聞いてくれました。ゲンドウさんは長年頑なだった自分の内面を見つめなおすことができ、ユイさんがいなくなって止まったままの時を動かすことができたです。それは自己の再発見と同時に周囲への再解釈でした。だからゲンドウさんはシンジ君を正しく見れた(あの時、抱きしめればよかったのかと気付いた)、ユイさんの思いに気づくことができたわけです。彼が半自動ドアの電車を降りた時、エヴァの主人公は碇ゲンドウだったんだと思いました。彼が自分の意志で進めてきた物語。ゼーレもシンジ君も誰もがこの人の計画に振り回されてきたわけですから。シンエヴァで重要キャラとなったのは、シンジ君の周りの人間というより、ゲンドウさんの周りの人間という感じがしましたからね。
ゲンドウさんを適当に流さないで、彼の内面を描写してくれて本当に良かったと思いました。これを知れなければ、シンジ君も救われませんからね。父親としてではなく、碇ゲンドウという個人を知れてよかったです…!

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