シンエヴァ感想②
- 耳ず

- 2021年3月23日
- 読了時間: 12分
この記事はシンエヴァのネタバレになりますので、まだ見てない/ネタバレが嫌だという人は読まないでください。
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3.
そして、カヲル君の番になるのですが、もう、ここもすごい衝撃でした。
それは、カヲル君ってシンジ君のこと好きなんだ………ということです。
何言ってるんだお前、と言われそうですが…笑
新劇場版に出てきたカヲル君が、テレビ版カヲル君のループの果てだと知り…私は驚かずにはいられませんでした。私の中で新劇と旧劇は繋がっていなかったからです。私の中で、テレビ版のカヲル君(通称庵カヲ)はリリンに興味があるだけで特別シンジ君が好きなわけではないと思っていました。中でもシンジ君と触れ合う機会が多く、面白いからあのような反応をしているだけだと思っていたわけです。どちらかといえば、シンジ君のカヲル君を好きな気持ちのほうが強いと思っていました。でも、そのように解釈していたカヲル君が、「シンジ君を幸せにしたい」という気持ちだけで幾多ものループを繰り返し続けたことを知り、解釈が180度変わってしまいました。
え…………カヲル君すごいシンジ君が好きじゃん………
それはすごい衝撃でした。もう驚愕でした。新劇場版のカヲル君はそう、というのなら「へえ~」ぐらいですむんですけど、あの破でアヤナミに嫉妬していたカヲル君が、テレビ版の庵カヲと同一人物だと知り「へえ~」で済むわけがありません……!!あの「元気少ないね」とか花が飛んでそうなぽやぽやの彼が庵カヲの果て…?もう、自分が見てきたものを疑いました。私はカヲル君の何を見てきたのだろうと…。そして疑問に思ったのです。
――カヲル君はどうしてシンジ君を幸せにしたいと思ったのだろう?
本編で、カヲル君がシンジ君のことを幸せにしたいのは、カヲル君自身が幸せになりたいからと指摘されていました。しかしそれでは説明がつきません。なぜシンジ君を幸せにすることがカヲル君の幸せに繋がるのでしょう?不幸な誰かを救うことで自分の優位性を味わいたい、誰かを助けることで自分も助かりたい。そんな願いとは少し違う気がします。それならシンジ君じゃなくても、アスカでもゲンドウでも誰でも良いはずです。さらにカヲル君には、自分がシンジ君を助ける快楽を得るために、彼をわざと不幸な目に陥れる(代理ミュンヒハウゼン症候群のようなナルシズム)というのが見られません。彼はいつも本気でシンジ君を幸せにしたいと真摯に向き合ってきました。それは、Qで死ぬときの「これは君の望む幸せではなかったね…」という言葉から伺えますし、シンでシンジ君が泣かなかった時、寂しさを覚えても縋らなかったことから分かります。
どうしてシンジ君を幸せにしたいと思ったのか?その動機は何か。
それは前記事に貼った漫画に描いていますので、読んでいただけたら幸いです。軽く解説を後でしようかな~と思います。
また、今回大きいな、と思ったのは渚カヲルのエゴを指摘したことです。エゴとは誰もが持つもので、本来の哲学用語としては「自我」という意味を持ちます。エゴは人間の資本です。それをカヲル君が持つと指摘した時点で、彼は単なる使徒ではなくなったのです。彼の名前「渚」のダブルミーニング、最後のシ者。それにほかの意味も与えた今回のシンエヴァは「碇シンジを救い、逆に追い詰める」というお約束展開から彼を解き放ったと言えるのではないでしょうか。また、海と陸のはざま、境という意味を持つ「渚」。この新たな意味についてまた漫画でも描きたいなと思います。
さて、己のエゴを開示し、そのような役割がなくなった渚カヲル。じゃあお役御免かといえばそうではありません。碇シンジは、エゴをはらんだ等身大の渚カヲル、その人の手を取りました。仲良くなるおまじない…本当に感動的なことだと思います。ここが一番涙腺にきました…。カヲル君が救われてよかった……。
このシーンが終わったとき、私は渚カヲルというものすべてが好きになっていました。もう、特大のエゴ。生命の書に碇シンジの名前を書いちゃうくらいのバカでかさ。ええ………(困惑)もう好きすぎだろ……笑
シンジ君がカヲル君のもとを選ぶかは分かりません。カヲル君を経て別のコミュニティに帰っていく結末のほうが多分にありました。それでも碇シンジを幸せにしたいと思ったカヲル君の思いは、自己満足ではなく本物だと思います。だって彼はシンジ君に自分の心を見られた時怒ったり泣いたりしなかったんですから。それでシンジ君が離れていっても仕方ないと思ったんです。でも碇シンジは手を取ったから、カヲル君は泣いてしまったんです。カヲル君の涙なんて初めて見ましたよね……ああ、もう私は渚カヲルが大好きになりました。もう言いましたが…こういう見返りのわからない状態でも相手を好きでい続けるというのに弱いんです。そんなわけで私は渚カヲルというもの全般が好きになってしまいました…笑
4.
そしてマリについてです。
あのラスト、私はマリとシンジ君が恋人同士になったと思いませんでした。『残酷な神が支配する』を知っていたからかもしれませんが、あれだけで付き合っていると判断できなかったんです。先ほど言った作品では、主人公のジェルミが虐待に合い、その痛みに寄り添いキスしてくれる女の子がいましたが恋人ではありませんでしたし、支えてくれた男も恋人にはなりませんでした。なんというか、その作品を通して、人がキスをしたり、好きだと言ったりするのにはいろんな意味があって、それを額面通り受け取るというのは野暮だということを教わったのです。中にはこの表現で二人の仲を読み取りなさい!というのもあると思いますが、そういう表現は往々にして作者の文化背景に依拠しています。例えば、インドには親友であれば男同士手を繋いで歩く文化があります。その文化背景に依拠すれば、手を繋ぐ=二人は親友と読み取れることになります。しかし日本ではそれだけで仲を読み取ることはできません。フランスの挨拶としてのキスも、知らなければ自分のことが好きなのかと誤った読み取りをするでしょう。なので、私は公式が明言しない限りそう受け取るのは良くないと思いました。パンフレットに明記されているかと開きましたが、特に書いてありませんでしたし、受け手がどう解釈したかでいいと思います。
それで、マリとシンジ君のあの終わりを私がどのように解釈したかというと、「再び歩みだす」ということだと思いました。またスタートする。その理由について、マリという人物に触れながら説明していこうと思います。
まず、庵野監督は新劇場版「序」のポスターにこんな言葉を連ねています。
「我々は再び、何を作ろうとしているのか?」
「映像制作者として、改めて気分を一新した現代版エヴァンゲリオン世界を構築する」
「「エヴァ」は繰り返しの物語です。主人公が何度も同じ目に遭いながら、ひたすら立ち上がっていく話です。わずかでも前に進もうとする意思の話です。曖昧な孤独に耐え他者に触れるのが怖くても一緒にいたいと思う、覚悟の話です。同じ物語からまた違うカタチへ変化していく4つの作品を、楽しんでいただければ幸いです。」
この新たなエヴァを始めるうえで投入された人物がマリです。ある意味、マリはこの円環を終わらせる、古いエヴァを終わらせるために存在していると言えます。また、新しいエヴァのために来たマリは、古いエヴァ(物語や登場人物も含めた広義的エヴァ)の終わりを見届けるためにいます。そういった意味で、マリはテレビ版からの続投キャラと一線を画しています。これを踏まえると、マリは物語の「トリックスター」だと言えるでしょう。トリックスターとは、神話や物語の中で、神や自然界の秩序を破り、物語を展開する者のことを指します。またこういった人物には善と悪、破壊と生産、賢者と愚者など異なる二面性が持たされています。(Wikipediaからの引用)
マリにもこの二面性が見られ、冬月先生の「イスカリオテのマリアくん」という言葉から読み取ることができます。「イスカリオテ」というのは、ただの地名なのですが、これを冠する名前で有名なのにユダがいます。イエスを裏切った人物として有名なユダ。2で、エヴァはゲンドウさんが主人公だったんだと書きましたが、その物語に与していたのがマリだと思います。ゲンドウさんを中心としたシナリオ。冬月先生もユイさんも、(漫画版を踏まえればユイさんを好きな)マリも彼の進める研究に協力していたと思います。しかしそれから裏切って単独行動を始めたマリ。そういう意味で「イスカリオテ」という冠がついているのだと思います。そして「マリア」ですが、マリの名前は「真希波・マリ・イラストリアス」です。それを冬月先生がどうしてマリアと呼んだのでしょうか。マリの「超懐かしいな~」という言葉から、単純に考えて冬月ゼミ時代のマリの呼称が「マリア」だったというのが妥当です。というか、正直何故そう呼んでいるかは分かりません笑
ただ物語上の意味としてなら思いつくものがあります。それは、「マグダラのマリア」です。「イスカリオテのユダ」と同じく、マグダラは地名です。マリアといえば聖母マリアが有名ですが、彼女はイエスの死と復活を最初に見届けた重要人物で、見方によって「聖女」と「罪人」という二面性を持ちます。これは、裏切り者の罪人でありながら、世界を見届ける聖女でもあるというマリの二面性と重ならないでしょうか?※また、彼女がエヴァを終わらせる/エヴァを見届ける役割を持つという考えにも厚みが出ます。
実際、彼女はシンの劇中でシンジ君を必ず迎えに行くと、彼の行く末を見つめる役を買って出ています。さらにマリはアダムスやエヴァシリーズの最後を見届けています。あ、ミサトさんの最後の雄姿を見たのも彼女ですね。
そんなわけで、マリは終わらせると同時にすべてを見届ける、見送る役を持っていると言えます。
そのマリと対になる役割を持つのはシンジ君ではないでしょうか。シンジ君はエヴァの主人公です。いくら人類補完計画の主導権をゲンドウさんが握っていたといっても、シンジ君が一話で乗らなければ終わっています。それは作中でミサトさんが指摘した通りです。それにメタ視点の事実上、碇シンジがエヴァの主人公です。つまり、円環はゲンドウさんが始まりでも、「エヴァ」はシンジ君が始めた物語なわけです。碇シンジは「始め」の人なんです。新劇場版で変更点はいくつかあっても、第一話のエヴァに乗るシーン「やります。僕が乗ります!」はそのままですよね。つまり、エヴァの物語は碇シンジが第一話で乗るこの決断がなければ始まらないということなんです。スタート。ここから。シンジ君が初めて、エヴァの一話が始まるんです。それは碇ゲンドウではダメなんです。
そして今回碇シンジは泣くことをやめました。
「涙で救えるのは自分だけだって分かったから…」
旧劇場版は「シンジ君が他人を受け入れ自分を好きになる」という話でした。今回はそれが第三村で済まされ、さらなる高みに行きました。自分だけでなく、誰かを助けたいというところまで…。すごい………。シンジ君はすごい大人になっていました。
そこから碇シンジは綾波、アスカ、ゲンドウさん、カヲル君までみんなを助けていきます。今まで助けてほしいと願い求める側であったのに、それを与える側になったのです。彼は一人ずつ、この円環から解き放ち、エヴァの呪縛(それはエヴァは暗いものであるというメタ視点なものまでも)を取り去らいました。助けたいみんなを助けたんです。
そしてその助けたい人の中にマリはいませんでした。それは、マリがシンジ君と同じ次元の立ち位置にいるからだと思うんです。始まりと終わり、そのセット。だからシンジ君はマリの迎えを待つし、マリもシンジ君を必ず迎えに行くのです。二人はエヴァンゲリオン新生の要だからです。二人がいる必要がある。終わるために。そしてまた始まるために。
ラストの駅のホームで二人はこんなやりとりをします。
「だーれだ?」
「胸の大きいいい女」
「せーかい♪」
作中で最初にこのやり取りをしたとき、シンジ君は「分からないよ…」と言いました。そしてパラシュートのあの人と分かってからもマリを見ませんでした。マリはシンジ君にとって一番の他人です。そして、自分の対です。終わり、見届ける役割のマリを直視できないシンジ君。シンジ君は、父とケリをつける覚悟を持ちましたが、部屋はまだ閉じられていました。それが冬月先生のハッキングにより扉があき、彼は自分の意志であの部屋を出て父の前に姿を現しました。あの時のシンジ君の覚悟を決まり具合を、誰もがわかったと思います。自分を恨んでる人を前にあの立ち振る舞い。彼は、マリの手を取ってマイナス宇宙へ行きます。終焉へ向かう、その覚悟ができた。
あの時のやり取りで答えを言えなかったシンジ君はマリを当てました。彼女を見れなかった彼は、しっかりと彼女を見て、どう見えるかまで言いました。
「相変わらずかわいいよ」
そして、「行こう」と手を引くマリに同じことをやり返します。「行こう!」と言ってマリの手を引っ張りなおして駆けていく。これがどういうことかというと、タイトルの回収です。タイトルの音楽記号には反復という意味がありますが、実はこれは対になる記号がなければ「最初に戻る」という意味になるのです。
エヴァのない世界で、ある世界の名残(DSSチョーカー)をつけたシンジ君。マリはそれを回収しに来たのだと思います。そして彼に「行こう」と促す。彼女は新生、復活を見届けにきたのです。すべてを見届けるものに迎えにはありません。しかし、シンジ君は彼女に「行こう!」と声をかけて手を引きました。マリその人すらも、その役割から解き放ったのです。そう、古いエヴァを見届けるためのマリこそ、全てが終わったとき1番古い存在となっているのです。ではそのマリを新生へ迎えに行くのは誰か。それは、「始まり」のシンジ君です。だからタイトルは始まり、最初に戻る意味となる記号のみ。それは今までの世界の反復ではないからです。
だから私はあのラストシーンには「再び歩みだす」という意味があると思いました。
※マグダラのマリアは、「イエスの死と復活の証人」ということに対し聖女/罪人の判定が揺らいでいるのではありません。他の福音書に出てくるイエスの周りの女性をマリアと取るか別の人と取るかで解釈が分かれ、そのような評価になっています。
マグダラのマリア
トリックスター
反復記号

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