残酷な神が支配するについて4/4
- 耳ず

- 2020年9月2日
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四章
サンドラとジェルミの親子関係はまるで恋人同士のようだと例えられる。例えばジェルミがイギリスに来たての頃、学校へ行きたいと言えば、サンドラは必死に引きとめようとした。グレッグはその様子を、まるで息子が恋人のようだと言ってサンドラを宥めた。同様にイアンもそこに恋人のような関係を見出していた。ジェルミが学校に行ってからも、週末が近づくと電話し、帰ってくると一番のりで出迎えた。また、一九九二年一一月一七日のグレッグの誕生日には、ジェルミが恋人を思い浮かべてほしいと詩を送れば、サンドラは自分宛のものだと感動する。ここから分かるのは、サンドラにとってジェルミは恋人のような存在だということである。
恋人の意味を、岩波国語辞典第七版新版で引くと、「恋の思いをよせる相手」とある。次に「恋」の意味を引けば、「その対象にどうしようもないほど引きつけられ、しかも、満たされず苦しくつらい気持ちを言う」と書かれている。さらに関連語として「恋しい」の意味を引けば、「そのものが身近にはなくて(その人のそばには居られず)、どうしようもなく慕わしくてせつないほどだ」と書かれていた。つまり、サンドラにとってジェルミとは離れがたく切なくて、心を強く惹かれる相手ということである。確かに、ジェルミもサンドラに思いを寄せ、彼女のことを深く気にかけているが、それ以前に二人は親子である。子が親を恋しく思うことは考えられるが、親がそれと同等に子を求めるというのはどういうことだろうか。二人がなぜそのような親子関係になったのか、サンドラの生い立ちを振り返っていく。
サンドラは、一九五七年四月一日にアメリカで生まれた。サンドラの母ステラは奔放な性格で、男のために家出を繰り返した。赤ん坊ができた時には、家に預けてまた男と出ていき、家庭に落ち着くことはなかった。ステラはマリリン・モンローに憧れを抱いていたが、最期は酒浸りとなり早死にしてしまった。そのため、サンドラの世話は祖母のアルがしていた。アルはイギリスからアメリカに来た移民で、お金持ちではあったが、旦那を亡くしてから苦労が絶えなかった。そのために女手一つでは何もできないと嘆き、女の一生は男の甲斐性で決まると考えていた。このことは、ジェルミにも言い聞かせ、男の子だからおばあちゃんとサンドラを守るようにと話していた。このようなことを曾孫に話すのだから、孫であるサンドラにも、苦労はしてほしくないという一心で話したのではないだろうか。ましてサンドラは女であったために尚さら、一生における男の重要さを意識しただろう。
水島広子氏の『「毒親」の正体 精神科医の診察室から』では、「毒親」の問題は親子関係の閉鎖空間ぐあいに関係していると指摘している。その中で最も閉鎖された空間は「毒親」だけの片親家庭だ。なぜならば、親一人子一人という関係が最も「親の言うことが絶対に正しい」という雰囲気を生み、立場や年齢差から子どもは疑いを持たないからだ。サンドラの場合、両親がいないため祖母一人孫一人の家庭であったが、形として変わりはないだろう。親から得られない分、サンドラはアルの愛情を求めたであろうし、彼女の考えを信じてきただろう。しかし、それも男がいなければ女の人生は満たされないというような人生観によって、どこか愛情が欠けているように感じたのではないか。また、祖母のアルがいても、いた筈の両親の不在は彼女に孤独感を生んだだろう。そのために、サンドラが家庭や男性に対して、憧れや夢のような望みを持っていてもおかしくはない。また、それまでの人生に肯定感や愛情の欠如を感じていても何ら不思議ではないと思う。
サンドラは夫ジェルミと結婚した時、ようやっと満たされる感覚を得ただろう。これから幸福になるのだと。こうした結婚による幸福感は、その後のグレッグとの結婚の際にもみられる。サンドラにとって、男というのは女の幸せを守る存在にあるのだ。それはアルの考えそのままでもある。サンドラと夫ジェルミの間に生まれた子どもに、ジェルミと名付けられたのにも、そうした一面が垣間見れる。父と同じように立派な息子になれという願いが込められているのだろうが、それは父と同じようにサンドラを守り、幸せにすることを課せられているのと同じである。ジェルミがサンドラを守るという構図は、こうした考えの家庭に生まれた時から決められたものであったのかもしれない。しかし、それも父がいれば問題ではないような話であった。
一九八五年、サンドラの夫であるジェルミが仕事先で急に亡くなってしまう。サンドラ二八歳、ジェルミ八歳の頃である。この時のサンドラの様子をジェルミは、気がふれたように悲しみ、世界が粉々になったようだったと回想している。それは大げさでもなんでもなく、その訃報はサンドラにとって、やっと得た人生の肯定感、愛情や幸福の喪失を意味していたのだろう。それはまさに、世界が粉々になることであった。不幸なことに、アルの死も続き、サンドラはジェルミと二人になってしまった。片親家庭になってしまったのである。サンドラは喪失感の行き場がなく、夫のもとに行きたいと死にたがった。ジェルミはそんな母の様子を心配して傍についた。サンドラはジェルミに「あの人みたいに」サンドラと呼ぶことを求めた。ジェルミはママと呼ぶのをやめてサンドラと呼び、それからジェルミは父のように、サンドラを守った。名前と同様に、立場も父のようになったのだ。それは、ジェルミが親の愛情を失わないために、母を求めたからである。つまり、サンドラとジェルミの関係は恋人同士のようでありながら、その成り立ちには親子関係が土台となっているのだ。サンドラのこうした行動には、二章で虐待する親に見られる要素として述べた「自己の欲求の優先傾向」が見られる。近年、毒親と呼ばれる親の在り方は、実は「虐待」の本来の意味と相違ないほどに近い。
かつて日本では、虐待という言葉はなく、折檻という言葉で虐待問題が取り上げられていた。しかし、英語abuseの翻訳である、虐待という言葉は、英語本来の意味合いと誤差がみられる。これを指摘したのは『子ども虐待』『子どものトラウマ』の著者である西澤哲氏である。彼はabuseの「正常から離れた使用」という意味合いは、日本語の「乱用」という言葉が最も適していると述べた。実際、虐待以外のabuseを用いる単語では、アルコール乱用や薬物乱用などと、「乱用」という言葉が充てられている。つまり本来の意味をとるならば虐待とは「子ども乱用」という言葉になるのだ。つまり、親などの保護者がその立場や関係を利用して、自分自身の欲求や要求の充足を図る行為を指す。それは、親子関係とは本来、親が子どもの欲求や要求を満たすものであるからだ。
つまり、夫の死後、親の立場や関係を利用してジェルミと役割逆転を起こしたサンドラは毒親といえる。そしてその本質は虐待と変わりない。ジェルミもサンドラと同様に、父と曾祖母を亡くした失意の最中であったが、サンドラはジェルミに男性として自分を守ることを求めたのである。
前述したように、サンドラにとって結婚とは人生を充足し、肯定する重大な意味を持っていた。そのために、結婚の際には希望に胸を膨らまし、別れる際には極端に絶望してしまう質があった。夫が亡くなったときだけでなく、一九八七年、親しくなった男性と別かれた際にも自殺未遂を起こし、一九九二年七月七日にグレッグから婚約破棄を言い渡された時にも自殺未遂を起こしてしまう。こうした異性関係で大きく振り回される様は、皮肉にも、母ステラと似ている。一九九二年七月四日、エリートでお金持ちなグレッグと婚約を結んだ際サンドラは、夢みたいと感動し、再び婚約をした七月九日は感極まり涙している。初めに婚約を結ぶ夜の少し前、グレッグのようなお金持ちと結婚なんて大人なんだからもう夢見ないとジェルミに話している。しかし、これは裏を返せば子どもの頃みていた夢であるという風にとれる。それが叶うことは、本当に思いがけない幸福であったことだろう。しかし、これまでとは全く違う生活が始まることは少しづつ彼女の重荷になっていった。
一九九二年八月二日、サンドラは一緒に暮らす前の下慣らしとして、二週間イギリスへ発つ。そこでサンドラはグレッグの長男・イアンと顔を合わせる。前妻リリヤに似ているというイアンは白っぽい金髪をしていた。リリヤに対抗してか、サンドラは赤茶っぽい金髪を白っぽい金髪に染めた。サンドラはこの頃から、グレッグの妻になる上でリリヤを意識していたのだ。それは、出会ったきっかけがリリヤの形見の桜の鍔であり、出会った当初からグレッグはリリヤを引きずっていたからだろう。サンドラは大切なものを亡くした者同士、同じ境遇に親しみを覚え惹かれていったのだ。リリヤが亡くなったのは一九七九年、サンドラの夫が亡くなったのは一九八五年のことであるから、より最近な方はサンドラであるが、サンドラにはジェルミがいた。サンドラは、今も十三年前になるリリヤの死を引きずるグレッグを見て、それだけリリヤへの愛情が深く、また助けになる人物がいなかったのだと思っただろう。サンドラはボストンでグレッグに会う度、彼の傷心に触れて慰めてあげたいと思っっていった。そのことは、グレッグと会うのが最後になる筈だった七月四日に、夫の形見である桜の鍔をあげたことから分かる。またグレッグが、リリヤの死からサンドラが救ってくれたと声をかけることで、サンドラにその役割を付していることが分かる。サンドラはそれに応え、理想に敵うよう努力してきた。しかし、そうした努力こそサンドラがグレッグとの生活に、不安を覚える証拠であった。
サンドラが自殺未遂の入院後、退院した七月二日。グレッグは明後日のナンタケット島バカンスで、ホテルは最高級のスイートルームをとり、ドレスにガウン、ビーチも用意したとサンドラに話す。サンドラはグレッグの用意に、どうしてそこまでしてくれるのか、こわいわと話す。グレッグが愛しているからと答えると、サンドラは喜んで彼の胸に顔を寄せた。ここで重要なのは、サンドラが「こわい」と感じたことである。サンドラはその後も雨あられとプレゼントを受ける。どれも安くはない代物だ。サンドラはプレゼントを受け取るたび、グレッグの愛情を感じて嬉しかっただろうが、それと同時に同じだけ答えなければならない感覚に陥っていっただろう。例えば、グレッグがジェルミも一緒にイギリスへ招待したいと言った後、サンドラはアメリカで一人暮らしをしたがるジェルミにずっと反対した。それはグレッグの期待に副わなくてはならないという意識があったためだろう。つまり彼の期待に応えなければと、不安に思っていたのだ。そのような意識があるために、サンドラは八月一四日の結婚式の後に倒れてしまっている。また、九月三日の二度目のグレッグのお屋敷訪問前日にも動悸がして、ボストンに帰ろうかと尻込みしている。さらにその不安が顕著に表れるのが、一〇月二日のことである。サンドラはナターシャが出て行った理由を、リリヤの代わりになれなかったからだと聞いて言葉にどもってしまう。また、ジェルミがこの生活をどう思っているのかを聞かれてポットのお湯を手から滑らせてしまう。お湯はサンドラの足にかかり、火傷を負ってしまった。サンドラは傷を負ったことで自信を失い、そもそもの生活に無理があった、もう限界だということを訴える。サンドラはジェルミに縋り、ボストンに帰ろうと言った。サンドラがグレッグとの生活に不安を覚え、彼に応えようと無理をしていたことが分かる場面である。
しかし、この時サンドラは、グレッグとジェルミに宥められてその気持ちを収める。なぜサンドラは、限界と言ってしまうほどストレスのある生活を続ける事にしたのだろうか。実は、一〇月二日の時点でサンドラは、ジェルミがボストンで男とホテルに行ったことを知っている。そのことは、彼女の九月三〇日の日記から分かる。日記では、ジェルミが男とホテルに行ったことについて、ビビが別れたくて造ったホラ話だと否定的にみている。彼女は、九月二六日にビビと別れたジェルミの様子を心配していたので、間を取り持ったり、慰めたりしたいと考えて手紙を先に読んだのだろう。そのことは、あまり心理描写のされないサンドラが、二巻一〇一頁五コマ目では可哀そうに思う気持ちが描かれていることから読み取れる。読んだら渡すつもりでいたことが、「こんな手紙/見せる必要ないわ」という言葉から分かる。サンドラはビビのデタラメ話だとしていながら、日記に信じられない様子を残している。このことから、サンドラがジェルミに対して疑心を抱いていたことが分かる。ジェルミがそんなことをする筈がない、しかし、もしそうならどうして何故と頭を付いて回っただろう。また、相手はグレッグかもしれない、ということも思いついたはずだ。なぜなら、サンドラが入院中で大変だった時期と手紙に明かされているからだ。あの時、どうやってかジェルミはグレッグを連れ戻してきたのだ。サンドラが入院している間に二人に何かがあっても知りようがない。しかし知りようがないだけに、ジェルミの相手がグレッグだとは言い切れない。別の誰かかもしれない。そのために、アメリカへジェルミと帰りたい気持ちがありながら、素直にはいかない思いがあった。また、グレッグから「君の愛がすべてだ」「君を守るからわたしを信じてくれ」と言われれば、グレッグなわけがないと、現状維持を続けるだろう。もしかしたらアメリカにはジェルミの相手がいるかもしれないのだ。グレッグはサンドラと二人で幸福になろうと、彼女に何度も約束している。不安に溢れたグレッグとの生活だが、だからこそ彼の愛が示されるたびに救われ、自分のためにも彼に応えようとするのである。しかし、グレッグの理想に答えるということは、髪を白っぽい金髪に染め続けるように、サンドラ自身を閉じ込め続ける意味を持っていた。
サンドラはジェルミに対して疑心を抱き、その不安を一〇月八日の日記に綴っている。続きには、しっかりしなければならないことを書き、九日に帰ってきたジェルミを待ち遠しかったかのように迎えている。ジェルミに対して、ビビの言っていることは本当なのか、本当ならどうして、相手は誰なのかと聞きたいところだろう。しかし尋ねることは核心に触れることを意味する。嘘だと思っていながら、本当かもしれない時のことを恐れているのだ。そんな中、一〇月一〇日にマットが、グレッグとジェルミがキスしているのを見たという。グレッグはマットを強く戒め、本当はサンドラをいかに幸福にするか話し合っていたのだと説明した。サンドラはその日の日記に、二人は話していただけなのに、マットは捻くれていて嫌な子だと記している。また、マットはかわいそうな子だから憎んではいけないということも書いている。いずれにしても、サンドラはグレッグを信じ、マットのせいにしたことが分かる。より強い痛み止めと睡眠薬を求めるサンドラからは精神的疲労がみられる。今の睡眠薬では眠れないのだろう。この日の夜、グレッグはいつものようにサンドラの寝床から抜け出してジェルミのもとへ行っている。どこかへ行くグレッグの気配にサンドラが気付いている可能性は高い。マットの嘘だと考えていながらも、グレッグとジェルミの関係に疑念を抱くには十分だろう。
翌日の一〇月一一日。この日、ジェルミは交際費としてお金が欲しいことをサンドラに告げる。サンドラはお金の管理はしていないのだと、グレッグにお金を渡すよう促す。グレッグは書斎に案内し、キス一つにつき一〇ポンドでお金を渡す。書斎に行くとき一緒についてくる犬は、サンドラと入れ替わるように画面に映りだす。書斎でキスをする二人を、犬はじっと見つめ、目を離さない。この時書斎のドアは開いており、この犬はサンドラの暗喩ともとれる。サンドラが二人のキスを目撃したであろうことが示唆されているのだ。このことは、一二日の日記からも読み取れる。
10月12日(月)
マットなんか 大キライ!/あの女も大キライ! デビ―! イヤな女!/死んでしまえばいい!/わたしを笑ってるのね! 二人で/笑ってるのね!/わたしがなにも/知らないと思って!/その男って誰なのジェルミ!/誰なのよ!/わたしを苦しめないで/ジェルミ お願い!(四巻三〇一頁二コマ目)
ここにおける二人とは、グレッグとジェルミのことではないだろうか。サンドラは二人の関係に気づいた後も、その様子を二人の前に出すことはなかった。しかし、ジェルミと黒髪が似ているグレッグの部下、デビーに対しては九月末から当たりが厳しくなっていた。ジェルミにぶつけられない感情をデビーにスライドすることで己を保っていたのだろう。つまり、サンドラは知らないわけではなく、知らないふりをしていただけなのだ。彼女が現実逃避をしていたことは、一〇月二〇日の日記からも分かる。サンドラはジェルミとグレッグの関係を疑うこと、考えることを罪だとしてそこから目をそらすことを正当化している。しかし、望んで行った現実逃避は間違いなくサンドラをむしばんでいっただろう。
最初、サンドラはグレッグとジェルミの関係が恋人のようなものだと考えていた。そのことは、一一月四日の日記から読み取ることができる。日記でサンドラは、グレッグにはあの女(デビーのこと)とジェルミがいるのだと、自分に味方がいないことを嘆いている。ジェルミのことも自分を脅かす、グレッグを奪う存在のように感じていることが、その証拠だといえるだろう。しかし、次第にサンドラの様子は変わっていく。サンドラは仮面をかぶるように家では微笑み、祝い事には大きく喜び、不満などないように、嫌がっていたナターシャやマットにも歓迎を示していい家族を演じようとする。日記においても、一一月中頃からジェルミやマットなどに対する愚痴や嘆きがなりを潜めて言葉少なになっていき、一二月の日記は作中描写がない。一一月一一日にボストン旅行を立てたのには、六日にジェルミから自分が死んだら悲しいか尋ねられたことが影響していると思われる。この時にはサンドラは、ジェルミとグレッグの間に何が行われていたか気付いていたのだ。つまり、彼女はジェルミとグレッグの関係に気づかないでジェルミを追い込んだのではなく、知っていながら沈黙することで加担していたのだ。
ナターシャが黙っていた罪悪感に苦しめられたように、同じ加担の仕方をしていたサンドラも苦しんでいただろう。そのために、ボストン旅行についてはグレッグにも強気に出て、朝空港へ向かうグレッグの車に乗り込んだのだ。その様子を、メイドも珍しそうにみていた。実はサンドラの名には、加護者の意味がある。彼女は最期、曲がりなりにもその役目を果たそうとしたが、それが叶うことはなかった。性的虐待から被虐者を守るには、起きていることを告白するほかない。しかし、サンドラはそれをすることが出来ず、沈黙を守ることで加虐側に加担してしまった。皮肉なことにも、性的虐待における沈黙の共謀の重要性を説いた先駆者、サンドラ・バトラーとサンドラは同姓同名であった。
なぜサンドラは、沈黙を破ることができなかったのだろうか。それはひとえに、グレッグからの愛もジェルミからの愛も失いたくなかったためである。そのためにサンドラは、ジェルミが自分を脅かしていると感じていた頃から気持ちを隠し、知らないふりを突き通してきたのだ。サンドラにとって、二人の愛を失うことは家庭の愛を失うことであり、ふたたび世界が粉々になることを意味していた。彼女は結婚によって埋められた自己肯定感、満足感を失い、独りになることを回避したのである。
そういった意味で、グレッグと婚約を結んだアメリカ独立記念日は、彼女の独立性を奪った節目ともいえる。アメリカンセンターJAPAN翻訳の独立宣言には、「すべての人間は平等であり、その創造主によって、生命、自由、および幸福の追求を含む不可侵の権利を与えられているということ。」と記されている。独立を祝い、自由と平等を讃える七月四日、その記念日と裏腹にサンドラはそれらを失っていった。
まとめ
一章から主要人物の行動を振り返ると、残酷な神とは親のことだと思える。これまで述べてきて分かるように、グレッグしかり、ジェルミしかり…親が子に及ぼす影響力は大きい。スタンレー・ミルグラム著作、山形浩生訳の『服従の心理』では、服従の基盤を作る力の一つとして家族をあげている。子どもは生まれた時から親の規制下に置かれ、親からの指示が道徳的規範の源になる。親が道徳的指示を子に送る時、実は二つのメッセージが込められている。一つは指示した倫理内容に従えというもの、二つは親の言うことを聞けというものである。人間の道徳や倫理感の構築事態が、服従的な態度の醸成と分かち難くなっているのだ。それがなぜかと言うと、そういったものに明確な根拠や理由はないからである。例えば、作中ジェルミは何があっても人を殺してはいけないのかと尋ねている。これの答えは作中答えられていないが、現在の倫理感で言えば、いけないことである。その理由は、今そうだと言う以外はっきりした理由はない。そのために、道徳や倫理などの心を育む過程において、親子間での上下関係は切り離せないのである。
また、誕生間もない子どもにとって、自分を養育し傍にいてくれる存在の有無は命にかかわる問題である。そのために、自分を受け止めてくれる特別な存在を対象に、子どもは愛着を形成する。自分の命を存続するためには、自分を受け止めた相手が一緒にいることは最重要事項であり、その命の存続も同様である。そして多くの場合、その相手は親である。親との情緒的結びつき、愛着が心の基礎となって子どもは自己肯定感や善悪の判断を持つようになる。であるから、子はどのような親であろうと最初の愛着対象を求める。親が子を否定すれば、子の自己肯定感は育たず、偏った善悪の判断を身に付けるようにもなる。親は子の人生を支配する最初の人物、神のようであると言ってもいいだろう。
しかし、今回注目しているのは、作品における神とは何かではなく、「残酷な」神とは何かである。単なる神ではなく、残酷なと修飾がつく。ジェルミが子どもを親に育てさせてはいけない、子どもにとって親は神だと言ったように(一〇巻、二九一頁四コマ目、二九二頁二コマ目)神を指すものは親だと言える。また、連載終了後、連載誌でのインタビューで作者は、人間が縋る対象である神が実は残酷であったら…その性格に問題があることがミソであると答えている。このことからも、神が親を指すことは間違いないだろう。ならば「残酷な神が支配する」とは「残酷な親が支配する」と言えるだろうか。もう少し考えてみる必要があるだろう。
残酷な親――前述したような親の形(虐待する親、毒親)であるが、その親もまた親がいたのだ。ならばその親は何を求めて残酷となったのであろうか。それは、親から得られなかったもの、失ったものを得ようとした結果なのである。つまり、自分の失ったものに対してなのだ。――残酷な神とは、「喪失感」のことだと言えないだろうか。いつまでも埋められない喪失感。それがこの物語の人間関係を覆っている、支配している神の姿ではないだろうか。
本作は冒頭の「ある悲しみの話をしようと思う」という言葉から始まる。戸田山和久著作『恐怖の哲学 ホラーで人間を読む』では、悲しみという情動を引き起こす対象の共通点として「自分にとって大切なものの喪失」をあげ、悲しみはそれを表象していると述べている。また、作者は月刊flowers連載終了後のインタビューで、冒頭の「悲しみ」はジェルミだけでなく、イアンやサンドラ、グレッグ…誰のものでもあると答えている。
つまりこの物語は、特殊な家庭にのみ焦点を当てた話ではなく、だれもが抱え、だれもが与え受けうる喪失――悲しみの物語と言える。
それらと人々がどう向き合っていくか。インタビューにおいて、作者が理解とコミュニケーションの方法を探るため漫画を描いていると答えたように、読者もその方法を一緒に探るようこの物語はできているのではないだろうか。
近年、岡田尊司氏を筆頭に「愛着障害」という言葉がみられるようになった。これは幼児期に受けた愛が人格形成のうえで障害となった状態を表している。一体愛とは何なのだろうか、支配とは何が違うのか。物語の肝が詰められているのは後半部分である。
ジェルミは自分の知っているサンドラなら、見ぬふりなどしないのに対し、実際は見ぬふりをしていたことに混乱をきたす。それは、自分は愛されていなかったのかということである。ジェルミはサンドラを見失い、グレッグだけでなくサンドラによっても愛が分からなくなってしまう。後半はイアンとジェルミを主軸に、前半で起こったことが何なのか思いをはせる。自分たちが失ったものは何だったのか。今回を後半の考察の足しにできれば幸いだ。
参考文献
・吉田タカコ『子どもと性被害』集英社 二〇〇一年八月二二日
・西澤哲『子ども虐待』講談社 二〇一〇年一〇月二〇日
・西澤哲『子どものトラウマ』講談社 一九九七年一〇月二〇日
・森田ゆり『子どもへの性的虐待』岩波書店 二〇〇八年一〇月二一日
・玉井邦夫『〈子どもの虐待〉を考える』講談社 二〇〇一年九月二〇日
・宮地尚子『トラウマ』岩波書店 二〇一三年一月二二日
・水島広子『トラウマの現実に向き合う ジャッジメントを手放すということ』創元こころ文庫 二〇一五年一二月二〇日
・水島広子 『「毒親」の正体 精神科医の診察室から』新潮社 二〇一八年三月二〇日
・ダン・ニューハース『不幸にする親――人生を奪われる子供』玉置悟訳 講談社 二〇一二年七月二〇日
・高橋和已『子は親を救うために「心の病」になる』筑摩書房 二〇一四年四月一〇日
・アリス・ミラー『魂の殺人新装版 親は子どもに何をしたか』山下公子訳 二〇一三年一月二〇日
・岡田尊司『愛着障害 子ども時代を引きずる人々』光文社 二〇一一年九月一六日
・芹沢俊介『家族という意思―――よるべなき時代を生きる』岩波書店 二〇一二年四月二〇日
・セルジュ・ティスロン『家族の秘密』河部又一郎訳 白水社 二〇一八年五月二五日
・スタンレー・ミルグラム『服従の心理』山形浩生訳 河出文庫 二〇一二年一月二〇日
・戸田山和久『恐怖の哲学』NHK出版 二〇一六年一月一〇日
・渡辺弥生『感情の正体―――発達心理学で気持ちをマネジメントする』筑摩書房 二〇一九年四月一〇日
・巽孝之『ニュー・アメリカニズム米文学思想史の物語学』青土社 二〇一九年八月一九日
・ジェームズ・ウエスト・デイビットソン『若い読者のためのアメリカ史』上杉隼人、下田明子訳 すばる舎
・『芸術新潮二〇一九年七月号』新潮社二〇一九年七月二五日
・西尾実、岩淵悦太郎、水谷静夫『岩波国語辞典第七版新版』岩波書店 二〇一一年一一月一八日
参考URL
・ひま・めも 萩尾望都講演会「‘‘イグアナの娘’’からの脱出~私らしさを求めて」 閲覧日二〇一八年一〇月三一日 Korobomemo.blog110.fc2.com/blog-entry-105.html
・調布経済新聞 「調布で漫画家・萩尾望都さんによる人権講演会「イグアナの娘」からの脱出」 閲覧日二〇一八年一〇月三一日 https://chofu.keizai.biz/headline/377/
・萩尾望都研究室 閲覧日二〇一九年一二月六日
・月刊fiowers インタビュー萩尾望都 小学館コミックフラワーズ 閲覧日二〇一九年一二月四日 https://flowers.shogakukan.co.jp/interview/interview_04.html
・kenbunden interviews 「萩尾望都に訊いてきた」 閲覧日二〇一九年一二月四日

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