12/28
- 耳ず

- 2023年12月28日
- 読了時間: 3分
さらっとクリスマスが過ぎてしまいましたね。
今思いましたが…
そしてもう年末ですね…。
これから書く内容と何の関係もないですが、ふとそう思いました。
さて。
最近姉と「ペルソナ5の明智吾郎は幸せな時があったのか」という話をしたのですが、他人の幸せを測ることほど難しいことはないですね。
(ちなみにペルソナ5とはゲームのことです。)
こうだったから幸せではなかった。
ああだから幸せだったーーとは一概に言えないものです。
例えば、上記の話の中で
明智は幼い頃親戚を回って最後には施設で育った
=常に何らかの役割を求められ休まる間がなかった。本人の発言からも人のぬくもりや優しさを感じたことがなさそうだ
=幸せだと思う時がなかったのではないか
という流れがありました。
本人が優しさやぬくもりを感じなかったとしても、それを他人から受けなかった証拠にはなりません。明智には人の優しさを受容する器がなくて、それを感じられなかったのかもしれないし自ら拒絶したのかもしれない。
そういったものを人から貰うことが、当人にとって「幸せ」になるのか分かりません。
彼には彼なりの幸せ…満足感を埋めてくれるものがあったと思います。
だから、たとえこちらの目でみて所謂「幸せ」と思うものが彼になかったとしても、その人生が「不幸」だったとは言えないのです。
むしろそんな風に、可哀想に、憐憫の目で見ることこそが侮辱的だと言えるのではないでしょうか。
彼は彼なりに幸せだったと思います。
私は、明智吾郎という男はジョジョのディオと同じ性質を持っていると思っています。
だからこんな風に言うのです。
ディオは優しさの塊のジョースター卿や甘ちゃんジョナサンと7年以上暮らしてきましたが、それに絆されることはありませんでした。
「僕は一番が好きだ。No.1だ」
「誰にも負けない男になる」
このためにずっと生きてきたのです。
彼にとっての幸せとは競争の中にこそ存在します。牧歌的にのほほんと穏やかに暮らすことがディオの幸せではありません。
だから、ディオは「優しさ」なんて綺麗事な呼び方※は好きじゃなかっただろうし、ジョナサンみたいな思考の人間も本当に理解できなかったと思います。
(逆にジョナサンもディオの思考が理解できなかったと思いますが…)
※以前にも同じようなことを言っています。
参照
どうだから幸せな生き方をしているだとか
こうだから可哀想な人生だとかいうのは他人から見た尺度でしかありません。
本人がどう感じていたのかは、本人にしか分からないです。
他人は他人です。
だから……明智しかりディオしかり、側から見てその生き方が痛々しくても、もっと良い生き方があるのにと思えても、本人がそれで良いと堂々歩んできた道なんだからそれで良いと思います。
それ以上もそれ以下もないです。
哀れみを向ける方がよっぽど酷いことをしていると思います。
そんなわけで、本人の認識と客観的な目の違いがギャップだなと思いました。
そういうギャップ、好きです。
自分はこういうつもりだったのに、相手にはこう受け止められていたとか。
同じものでも、通す目が違うだけで見え方がこんなに変わるというのが楽しいです。
そういうのを漫画で描いていきたいなと思います。(今の米英もそんなところですし)
では。

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